Miles Davis / マイルス・デイヴィス

Miles Davis / マイルス・デイヴィス
Biography

マイルス・デューイ・デイヴィス三世(Miles Dewey Davis III, 1926年5月26日 – 1991年9月28日)は、アメリカ合衆国のジャズトランペット奏者。アルバム『カインド・オブ・ブルー』『ビッチェズ・ブリュー』などで知られている。日本には彼を「ジャズの帝王」、「モダン・ジャズの帝王」と呼ぶファンや評論家も多い。クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、フュージョンなど、時代に応じて様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引した。

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Miles Davis / マイルス・デイヴィスのビデオリスト

  ・MILES DAVIS AND THE MODERN JAZZ GIANTS – THE MAN I LOVE (TAKE 2)

  ・MILES DAVIS – AROUND THE MIDNIGHT (1967)

  ・CANNONBALL ADDERLEY FEAT. MILES DAVIS ” AUTUMN LEAVES” (1958) : 枯葉

  ・SO WHAT BY MILES DAVIS

  ・MILES DAVIS – BITCHES BREW

  ・MILES DAVIS: TIME AFTER TIME

Miles Davis / マイルス・デイヴィスのおすすめのアルバム

  ・Birth of the Cool / クールの誕生[1950]

  ・Round About Midnight / ラウンド・アバウト・ミッドナイト+4 [1957]

  ・Somethin’ Else / サムシン・エルス+1 [1958]

  ・Kind of Blue / カインド・オブ・ブルー[1959]

  ・Bitches Brew / ビッチェズ・ブリュー [1969]

Miles Davis / マイルス・デイヴィスの生い立ちと活動

イリノイ州アルトン生まれ。翌年にイーストセントルイスへ転居。祖父はアーカンソー州に広い土地を持ち、父は歯科医、母は音楽の教師という裕福な環境で育った。13歳の誕生日に父親からトランペットをプレゼントされ、演奏を始める。高校在学中の15歳のときにユニオン・カードを手に入れ、セントルイスのクラブに出演するようになる。当時のセントルイスにはアフリカ系アメリカ人の労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていた。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいた。

18歳の頃マイルスは、セントルイスにビリー・エクスタイン楽団が来たとき、病気で休んだ第3トラッペッターの代役を務め、ディジー・ガレスピーチャーリー・パーカーとの共演を果たした。このときのことをマイルスは「バードとディズの演奏を聴いてても何が何だかさっぱりわからなかった」と語っている。

彼はその後直ぐにニューヨークに出てジュリアード音楽院に入学(後、中退)。間もなくパーカーを探し当て、1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にする。

1945年、ライオネル・ハンプトンの楽団に所属していたハービー・フィールズの録音に参加。公式な初レコーディングである。

1947年には、パーカーやマックス・ローチのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。

パーカーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンスと出会う。ギルの協力を得て、後のウェスト・コースト・ジャズの興盛に多大な影響を与えた『クールの誕生』を制作。その後もギルとは度々共同制作を行う。

1950年代に入ると、アート・ブレイキーなどと共演するが、麻薬の問題で一時演奏活動から遠ざかる。しかしマイルスは立ち直り、1954年プレスティッジ・レコードから発表した『ウォーキン』以降、ハード・バップの旗手として活躍。

1954年12月24日には、セロニアス・モンクと共演するが、両者は音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この「The Man I Love」での共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていた。しかし実際の所、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演奏しないよう、マイルスが指示したというだけであり、評論家が不仲であるかのように曲解してそう名付けただけのものである(他ならぬモンク自身もマイルスの指示を了解していた事が判明している)。

1955年、ジョン・コルトレーンレッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズのメンバーで、第一期クインテットを結成。同年、ニューポート・ジャズフェスティバルにおいて、チャーリー・パーカー追悼のために結成されたオールスター・バンドに参加。このときの演奏がきっかけとなりコロムビア・レコードと契約。

1956年に移籍第一作『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』発表。その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。24曲、すべてワンテイクであったといわれる。俗に「マラソン・セッション」と呼ばれるが、連続した2日間ではなく、2回のセッションの間には約5ヶ月のブランクがある。これらの演奏は『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『クッキン』の4枚のアルバムに収録され、プレスティッジはこの4枚を毎年1枚ずつ4年かけて発売した。

また、1957年には『死刑台のエレベーター』の音楽を即興演奏で録音し、自身初めての映画音楽を制作した。

1958年にはキャノンボール・アダレイを加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。同年にはキャノンボールの『サムシン・エルス』に参加。中でも、「枯葉」は名演。

また、レッド・ガーランドが退団したため、ピアノにビル・エヴァンスを迎える。ビルはバンドにクラシック音楽(特にラヴェル、ラフマニノフ)の知識を持ち込みマイルスに影響を与えたが、黒人のピアニストを雇わなかったことでマイルスのバンドの黒人ファン等からの人種差別問題など(当時唯一の白人メンバーだった)で7ヶ月余りで脱退。ウィントン・ケリーが代わって参加した。

1959年代表作の一つ『カインド・オブ・ブルー』を制作。その際にはビルを特別に呼び戻した。この作品でマイルスは、これまでのコード進行に頼る楽曲ではなくスケール(音列)を指標とした手法、いわゆるモード・ジャズの方法論を示した。この作品は革新的である以上に演奏の完成度が非常に高く、半世紀以上経過した現在でもモダン・ジャズの最高傑作の一つとして高い人気を誇っている。中でも、「So What : ソーホワット」は名曲。

1970年代に入るとマイルスはファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと進展、ブームとなりつつあったフュージョンとは一線を画するハードな音楽を展開する。マイルスのエレクトリック期とはこの時期を指すことが多い。マイルスは次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライヴを積極的に行ったが、公式に発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。1972年に発表された公式アルバムである『オン・ザ・コーナー』は、現在でもその先進性が話題となる問題作であった。しかし、フュージョンブームでかつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を連発する一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。

1973年と1975年に来日。このころから健康状態も悪化、75年の大阪でのライブ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、以降は長い休息期間となる。

1980年に活動再開。ドラムのアル・フォスター以外はビル・エヴァンス(サックス)、マイク・スターン、マーカス・ミラーなど、当時それほど有名ではなかったフュージョン系の若手がメンバーとなった。1981年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』発表。同年10月には新宿西口広場(現在の東京都庁)で来日公演を行った。この模様は後日NHKテレビで放映された。この時の演奏の一部がライブ盤『ウィ・ウォント・マイルス』に収録されている。以降83年、85年、87年、88年、90年とたびたび来日した。

1980年代はポップ色を強め、85年に発表された『ユア・アンダー・ザ・アレスト』ではマイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」などの作品を取り上げた。

86年、長年在籍したコロンビアからワーナー・ミュージックへ移籍。同年発表の『Tutu』は、マーカス・ミラーのプロデュース(1曲のみジョージ・デュークのプロデュース)で、バンドを従えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップスミュージシャンのような制作スタイルを取り入れた。またプリンスなどにも接近しいくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライブにゲストとして一部参加している。また、TOTOの『ファーレンハイト』にもゲストとして参加。以降も、チャカ・カーンやスクリッティ・ポリッティなどジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加した。

1990年には東京ドームにて行われたジョン・レノン追悼コンサートに出演し、ビートルズのストロベリー・フィールズ・フォーエバーをカバーした。さらに遺作『ドゥー・バップ』(1991年)ではヒップホップのミュージシャンであるイージー・モー・ビーをゲストに迎え、最後まで時代を見据えて活動した。1991年9月28日、肺炎のため死去。65歳没。 死後の2006年、ロックの殿堂入りを果たした。